こんにちは。
先日のブログ記事(本に関する)で取り上げた、日本文学研究者であるドナルド・キーンさんが24日、死去されました。キーンさんのことは多くのメディアが大きく報じていますのでここでは多くは語りませんが、
「都内のご自宅で話を聞いたとき、日本の家庭に飾られている絵画(カレンダー)、印象派の作品が多い、日本には美しい絵がたくさんあるのに、なぜみんな、モネ、ルノアールなのか?残念に思っています。と少し寂しそうな表情をされて語られていました」と全国紙の記事に書かれていたことを、ひとつ紹介します。
キーンさんは、日本人が自国の文化に関心を持たなくなってきている状況を憂えられていた、と記事は続きました。詩人のボードレール(シャルル=ピエール・ボードレール:仏)らが浮世絵の魅力に気づいて以来、ヨーロッパ(とりわけフランス)とは繋がりが出来たのですから、もう少しバランスがあればいいな、僕も思っています。
下の絵画は、店に飾ってあるものです。
東海道五拾三次之内 京師 三条大橋
京都の三条大橋と鴨川、橋の上で行き交う人々の様子、京の町並みと山々。
歌川広重作の浮世絵です。
現在の三条大橋の様子は、こんな感じです。
木製の欄干と擬宝珠が、昔の面影を残していますね。
それを除くと、三条大橋界隈は近代化してすいぶん様変わりしました。
それでも、地元商店街の方々は、なんとか東海道があった足跡を残そうと
弥次喜多像(やじきたぞう)を作られました。それが冒頭の画像です。弥次喜多像は橋のたもと付近にあります(上の写真では左側:右から橋を渡って渡り終えたところ)
弥次郎兵衛(やじろべえ)と喜多八(きたはち)という2人の登場人物が伊勢参りのために、江戸から東海道をのぼる道中を、2人の滑稽なやりとりであらわした「滑稽本」が東海道中膝栗毛です。知ってられる方も多いのではないでしょうか。人気戯作者、十返舎一九(じっぺんしゃ いっく)の代表作で、多くの人に親しまれました。そんなユニークな十返舎さん、「辞世の句」(死の直前に句や歌を書き残す日本文化)でも十返舎さんらしい句を詠まれました。
「この世をば どりゃおいとまに せん香の 煙とともに 灰左様なら」
ところで、一般的には「東海道五十三次」、つまり江戸の日本橋から京都の三条大橋を結ぶ街道で、宿場町が品川から大津までの五十三次であるとされていますが、最後の「大津宿」を出て京都に向かう道中に、分岐点があるのです。そこを左に曲がって「伏見宿」「淀宿」「枚方宿」「守口宿」を経て、大阪の京橋までを結ぶのが東海道だったのです。
現在の京阪電車京津線「追分」駅付近の石碑が立っています。
「みぎハ京ミち ひたりハふしミみち」
実際は京都から大阪に行くには淀川を下ることが多くて、伏見宿~守口宿の4宿はのぼり〈京に行く)の時だけに使われていたようです。また多くの旅が江戸から京までを行き来であったこともあって一般的には五十三次と言われるようになりましたが、「東海道五十七次」と呼ぶこともできます。
檀王法林寺
さて、鴨川にかかる三条大橋手前付近も、今では大きなビルが立ち並んでしますが、地元では「だんのうさん」と親しみをこめて呼ばれている、むかしと変わらない檀王法林寺(だんのうほうりんじ)があります。
京阪電鉄京阪本線の「三条駅」で下車して、左に鴨川を見ながら川端通りを上るか、三条通りを東に進むとすぐに見つかります。北東の交差点から1分もかかりません。
見つからない場合は通り過ぎてしまったということです(笑)
写真は、南北の川端通りにある東門です。
檀王法林寺は、磐城国(現在の福島県いわき市)生まれの浄土宗の僧、袋中上人(たいちゅうしょうにん)が、一度焼けてしまった「悟真寺」を復興した寺です。彼は1603年に琉球王国に辿り着いたのち、国王と親交を深めてその教えを一般大衆まで広く浸透させました。現在の沖縄の伝統芸能「エイサー」は、彼が伝えた「念仏踊り」がもとになっていると言われています。
だんのうさんを訪れてみると、昭和初期から夜間保育も始められているだん王保育園の子供たちの、あふれる笑顔と歓声が聞こえてきます。